きこえてきたこと

哲学、読書、文学、宗教、映画、日々のこと。

『海と毒薬』 遠藤周作

 久しぶりに小説を読んだ。

 ときどき遠藤周作の本を読んでいる。

 これは実際にあった九州大学生体解剖事件(米兵捕虜の人体実験)をイメージして(という表現がいいのかな)書かれたもの。

 生きている人間に医学的実験を施し、死に至らしめる。つまりは殺すという事だ。人を生かす仕事をしている医師が、人を殺す話。

 人はそういう立場におかれたならば、そうせざるを得ないことがある。それはいままで生きてきてそう思う。戦争のある国に生まれた人、自分の身を守るために犯す社会的に悪とされる行為。今のわたしはたまたまそれをしなくて済んでいるだけ。

 物語は戦時中。人が死ぬのはしょうがない。病院内の勢力争いで優位に立たなければいけないからしょうがない。成功するはずの手術が失敗したのを隠すのはしょうがない。外で死ぬかベッドで死ぬかの差しかないから死んでもしょうがない。 

 この物語の主人公は運命にながされていく勝呂という医師なのだけど、わたしはどうしても同僚の戸田の告白が気になってたまらなかった。というより、戸田はわたしなのだ。

 こんなにわたしを表現されているように感じたことはない。戸田の告白、痛みを感じない自分を語る言葉ひとつひとつに恐ろしいほどピッタリとくる自分の心を感じた。ああ、自分の言葉で語ることはできないけど、これはわたしだ。自分だけは特別で許されていてでもそれを脅かすものは認められなくて壊していって、なかったことにして。

 いい人が一人も出てこない気がする。橋本教授の妻ぐらいか。

 手術(人体実験)の前の将校たちの様子からラストまで、傍観者の自分がいた。勝呂や戸田やその場にいる登場人物の気持ちに想いを馳せる前にその場にいる傍観者の自分がいた.考えるのが間に合わない。

 そんな小説。わたしは戸田の中に自分を見いだした。これを読んだ人は、誰か登場人物の中に自分を見つけるかもしれない。

 人間ってなんだろうね。勝呂が助けられなかった「おばはん」はなにを思っていたのだろうと最後ふと考えた。勝呂はそれに想いを馳せる痛みを感じただろうか。それともそれを回避するために考えることをやめただろうか。でもきっと心の奥底にそれは残ることだろうな。人間に忘れる能力があるけれど、やっぱり忘れられないことはある。大抵忘れたいことを忘れないのだ。ということを今日考えた。