きこえてきたこと

哲学、読書、文学、宗教、映画、日々のこと。

『銀河鉄道の夜』をよんだ

 ひさしぶりに読んだ。高校生以来じゃないか?

 

 とある本を読んでいたら『銀河鉄道の夜』について深い考察をしていて、その中で「ジョバンニのお母さんは死んでいる」ということが書かれていた。あれ?あれれ?といても立ってもいられなくなってKindle青空文庫を読む。

 

 小学校4年生の時、放送委員だった。なにをするかというと、お昼の給食の時間に音楽をかけたり、長い休み時間の案内、BGMを流したり、下校の放送を流したり。

 そのなかのお昼の給食の時間は、リクエストが多いアイドルの歌とかをテープ持っている子が持ってきたり、先生が貸してくれたり(平和な時代だ)してかけてたんだけど、わたしと一個上の家の向かいのお姉ちゃんと二人で朗読を企画したのだ。

 それが『銀河鉄道の夜』。なんでこれにしたかというと、おねえちゃんが先に読んでてわたしにこれ読め!と貸してくれて読んだんだけど、二人して「これ、哀しい話に思えるけどなんかわからんね。」と二人でもやもやしていたのだ。当時お互いの両親にこれどういう意味?って聞いたりしたけど、「あー、昔読んだけどなんだったっけ」ぐらいで躱された。そう、めんどくさい子ども二人だったのだ。

 それでとりあえずこれみんなにも読んで感想聞きたいけどそれなら昼に流そうということになり、お互いの家で一回15分で朗読を録音して学校の給食の時間に流したのだ。

 結果、数人が図書館で本を借りて読んでくれた。

 「ちょっとわからないなあ。」

 「カムパネルラは死んだんだよね。」

 「ジョバンニは子どもなのに病気のお母さんがいて牛乳持って帰りたいのわかるけど、カンパネルラが死んじゃったかもしれないのに気にならないのかな?」

 小学生の当時、つたない読解力しかない同志でわからんわからんと話をしたことを思い出す。なつかしいなあ。

 

 今日お昼から隙間時間で一気に読んだ。でもちゃんとあのときのわからんわからんを思い出しながら。

 でも結局わからんのかもしれない。いろんな推察、大人になった経験で「これはこういうことを隠喩しているのでは?」とかも言えてしまう。でも本当はなにかわからない。 

 今も昔も同じ気持ちがする。とても哀しいということ。今読むとジョバンニのお母さんが生きているのか死んでいるのか、どっちであってもジョバンニは哀しいんだ。温かい牛乳を抱きしめても哀しいんだ。今読むと、カムパネルラと別れてみんなの幸せのために新しい決意をしたジョバンニのようにも読めるけど、そんな風に変わるということが小学生の自分にも今の自分にもあるかもしれないけどそれが自分に起こると思えない。だから哀しいが勝ってしまう。

 

 死の世界にいったカムパネルラと生と死の境界でカムパネルラと別れたジョバンニ。これを完全に理解できるときはくるのだろうか。