きこえてきたこと

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『老人と海』を久しぶりに読んだ

 高校生くらいの時に読んだ『老人と海』を改めて読んでみた。当時、現国の問題の模範解答みたいな解説をちらっと読んでもあまり納得がいくないようじゃなかった。

 

  どうもヘミングウェイの文体だと、わかってることは書かない、氷山の一角を書いて全体を各人が味わうみたいな感じらしい。しかも翻訳者によって単語に裏の意味があるかどうか、「aloud」を昔のように「大声で」と訳すか「声に出した(ニュアンス)」にするかで全然違うものになるらしい。これはすごい違いだ。老人の独り言と思考の狭間を行ったり来たりすることもひとつの味わいであるのに大声かつぶやきかの振れ幅が翻訳者のセンスに依存するなんて!!!!(解説・あとがきより)

 

 今回読んでみて思ったことは、老人が海上で独り自分と語り合う。そして「あの子」がいればとそれを思って生と死の狭間にいるようなところをふと生に引き戻される感じ。海上のことが本当はハバナの海岸にある新聞紙のベッドの上の出来事ではないかと思うくらいの「独り」の観点。誰も他人はそれが現実だと保証してくれない。長く格闘したマグロや陸まで戦い続けたサメの群れまでもその現実の証人としたいがためか、一種の愛着、仲間意識を感じさせる。結局なにが本当なのかわからないけど、少年が泣いている。老人は独りではない。そして『もっと教えてくれ』と請われている。その時点で老人は「教えるもの」となれる。少年と血縁がなくともその関係性で老人は一眠りして起きたあとも生きていけるのではないかと思う。

 

 どんなみすぼらしく貧しい生活であっても、人に必要とされるのであれば生きていけると思う。老人は生きて還ってきたが、漁師としての結果は敗北だった。完全に負けて楽になったという。それでも彼を必要だという少年がいればそれ以上いらないのではないか。

 歳を経て読んでみたら、とんでもなくハッピーエンドな物語に思えた。