きこえてきたこと

哲学、読書、文学、宗教、映画、日々のこと。

気になるのがもうだめなんだ

 知っている人がYouTubeで動画を上げているんだけど、FacebookTwitterで、「こんなにたくさんの人が見てくれてます!ありがとうございます!」と書き込んでいる。でもどう見ても不自然な数なんだよね。

 100単位で再生回数が上がってピタっと止まる。

 どうみても再生回数を買っている様な気がする…。というかそうなんだと思う。

 それがわかったとてわたしは知っている程度の人。そこになにかいう必要もない。ただすような正義も持ち合わせていない。でもなんか見てしまう。「本当のことをいっているかどうか」を確かめてしまう。

 自分の時間を無駄にしている。しかしながら気になる。なぜ気になるかというと、その人が再生回数を買っていることが悪だと自分で思っているから。その悪を見つけた喜びがわたしの中にあるのだきっと。

 ということで、そういうねじれた喜びに時間を費やす自分がばかばかしいとおもいつつ、たまにやってしまうところがどうしようもない人間だなと思うところなのである。 

 このことを知っているともだちはとてもやさしいので「見守ろう」というけれど、嘘をついてまで自分を大きく見せたいと思うその知り合いに対して嫌悪感を持ってしまうのよね。こんな見え透いた手法でとは!と。自分がほんとうに冷たい人間なのだと思う。

 わたしはSNSを見ない方がいいのだとおもう。悪く思われないように平等に対応する。腹の中は違うけど。それでしんどくなる。また、適度に交流を保つために他人の投稿にもいいねやコメントをしなくてはと思う。自分も含めてだけど、いいねされたり思うようなお褒めのコメントをもらうことをいきがいというか、やりがいというか、自分の糧にしちゃってる。ちょっと苦しいと言ったら心配してくれる言葉を期待する。本当は言いたいだけなのかもしれないけど、そういう言葉をもらう事までがセットになっている気がする。

 気がついたのは、コメントくれる人も承認欲求を満たしたい人たちなので、褒めたり慰めてくれる人はほんとかゆいところに手が届くようにしてくれるし、自分の欲求が強い人は人の投稿そっちのけで自己主張するし、結局自分が投稿しても、他人の投稿みても「自分が」と主張するものを見ておなかいっぱいになるんだよな。

 コメントして欲しい相手(層)がある人は、反応してもらえるような内容にしてるんだなというのを感じたり。

 自分も同じ穴の狢であるにもかかわらず、他人の事はよく目につく。

 最近めちゃくちゃ忙しいのと、自分のメンタルのバランスを崩したので、そういうルーチン的なことを一切やめてみた。するとものすごく時間が出来て好きな本を読んだり映画を見たりすることができた。すごくいい。たしかにいままでのコミュニティのことで知らなくなることが多くなったりなんとなく得る情報も少なくなるだろうけど、まあそれでもいいかとおもった。気になるのがだめなんだと思う。

 さあ、今日もゆっくり寝るのだ。