きこえてきたこと

哲学、読書、文学、宗教、映画、日々のこと。

わたしを覚えている人は・・・

 今日はちょっと離れたドラッグストアに行った。ついでに隣のスーパーによる。駅前だと高いけどここの果物はなにがあるかなーと思って。

 佐藤錦、種なし巨峰を買った。

 ピオーネとか高級種はないけど、とても安くて見た目も新鮮そう。

 桃も買おうかと思ったけど、一気に買ってもなあ。とりあえずこれだけでいいや。

 

 おばあちゃんが食後に必ず果物を食べていた。それが母の代になるとなぜか夜のおやつという悪しき風習になっていった。果物とお菓子は大分違うと思う。

 おばあちゃんはいつも林檎。季節によっては梨だった。はじめてナイフの練習をさせてもらったのも林檎。

 そんなことを思い出しながら林檎じゃなくて、やっぱりこのスーパーでお得なものを購入。林檎はいつでもどこでもそんなにお値段かわらないもの。

 

 たまに、祖父母のことを思い出す。覚えているのは父方の祖母と母方の祖父母の3人。最近思うのは、わたしがとても長生きして死んだら、祖父母のことを知ってるひ孫はいないから、誰も覚えてない世界になるんだなってこと。でもわたしひいおじいちゃんやおばあちゃん、ひいひいおじいちゃんおばあちゃんのことも、おばあちゃんから聞いて知っている。ちょっと記憶怪しいけど。本当かどうかわからないけど、ご先祖に当たる人たちの一面。こんな人だったという話。記憶の中の、記憶の物語。こういう風にしか伝えられないねえ。みんな偉人で伝記が本になってるわけじゃないから。

 

 わたしのことを覚えている人はあと何年ぐらい存在するのだろう。80才まで生きて、5才ぐらいの子にあって、その子が80才まで覚えていてくれたら。

 あと100年くらいか。

 覚えていてもらったからなんだということなんだけど、ふとそんなことを考えた。そうね。この人はわたしのことを知っていてくれるってわたしがわかっていたらうれしいけど、しらないひとだったらなんとも思いようがないなあ。なにかで名を残したいわけでもないし。でも、わたしを覚えていてくれるひととわたしがわかってる人=知っている人がいなくなる=死ぬのは、かなしい。まあ、すべてはわたしが生きているうちでしかなにかを”思う”ことはできないと言うことだ。

 この佐藤錦はおいしい。当たりだ。