今日、遠くにいる親と同い年くらいのともだちから荷物が届いた。
手作りの縫い物、袋物、梅干し等を送ってくれた。
ともだちは病気なのだ。
あとどれだけ会えるかわからない。残された時間がそんなにないことを彼女は知っている。
ものすごく活発で頭のいい方で、お裁縫もすごい腕前。
わたしは病気になられてから知り合ったのだけれど、先日会ったときにこうこぼしていた。
「母はなんでも上手に出来たのに、わたしは全然、つまらんばあさんになってしまった。縫い物が前みたいに出来なくなってきた。しんどい。なんの役にも立たなくなってしまった。死ぬのがこわい。」
わたしは彼女の全盛期とも言うべき時代を知らない。でもまわりの人の話からどういう感じなのかは想像がつく。先日共通の友だちに彼女の過去の縫い物を見せてもらった。素晴らしい仕上がりだった。手仕事の綿密さ。
そんな彼女が、「出来なくなったわたし」と向き合い辛い思いをしながらも、わたしのために縫ってくれた。届いたものの縫い目。何回も玉留めしてある。ゆがんでいる。これを「できなくなった」と思いながらもそれを乗り越えて作って送ってくれたのだと思うと、涙が出た。
同時に思ったことがある。
自分は親に対してこういう風に思えない。どうして素直に思えないのだろう。わたしの中の何がそうさせるのだろう。
正月は自分の体調が優れなかったからいい顔も出来なかった。母に何気ないLINEを送った。どうしようもなくやさしくなれない自分を認めながら。