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『スタンド・バイ・ミー』ー映画館でみたリバー・フェニックスの強さー

 『スタンド・バイ・ミー』 1987年 Rob Reiner

スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

  • 発売日: 2016/03/18
  • メディア: Prime Video
 

 

 1987年か。映画館でみた。彼らは同い年ぐらい。当時のわたしは、一昔前のアメリカの少年たちの自由さをうらやましく思ってみた。木の上の秘密基地。たばこを吸って、冒険に行く相談をする。同世代だけに違った世界がキラキラして見えた。リバー・フェニックスは当時アイドル的に人気あったしね。そして死体探しをしにいくこともかっこよく見えた。自分のことで思い悩む主人公たちの内面すらもすてきに思えた。憧れの厨二病のネタだみたいな。なんと勝手な。冒険譚としてみていたのは否めない。

 

 この映画の数年後、リバー・フェニックスが亡くなった。子役のイメージだったが、もう成人していた。

 当時、ショックだったけれど情報を追っていなかったが、今調べてみたら、リバー・フェニックスは両親が入っていたカルト教団「神の子供たち」に所属しており、性的幼児虐待を受けていたそうだ。本人が語っている。

 こういうバックグラウンドが、この映画での「大人を信じることを諦めた強さ」みたいなもの感じさせるのかもしれないと思った。

 

 いま改めてみると、少年たちが「死」に向き合う物語だ。興味本位に死体の話をするバーン。電車にひかれずにぎりぎりまで線路にいるゲームをしたがるテディ。自分の家庭や周りからの扱いから自分に希望を持たないクリス。そして兄の代わりに自分が死ねば良かったと思っているゴーディ。彼らは死体発見者として注目されたいという名目で探しに行くわけだ。でも途中からそれだけではない雰囲気がでてくる。彼らが死体に対峙したとき、胸に去来したのは、「死」は見に行くものじゃなくて、自分にもあるということではないだろうか。

 

 印象的なシーン。

 ゴーディが語って聞かせるお話。みんなに馬鹿にされる太った男の子が町のみんなに復讐する話。テディはその男の子の「その後」を聞きたかったけど、ゴーディはさあねといった。その男の子が幸せになったというエンディングより、みんながmess upというのが重要なんだろう。彼はそれで満足なんだ。わたしたちはとかく自分の納得のいくエンディングを付けたがる。

 クリスが先生に裏切られたことをゴーディに告白するシーン。鬼気迫るリアルさ。リバー・フェニックスの悲しみの中から出てくる強さみたいなのがすごい。これは本当に短い間にあった彼の人生経験から来るものではないかと思う。

 死体を横取りしに来たエース(キーファー・サザーランド)に銃口を向けるゴーディ。この真剣さに押されるエースの演技もいいと思う。

 生きることにちょっと悩みながら若さと勢いにあふれる少年たちが死というものをなぞりに行くことで、生きることと死ぬことの対比と一体が同時に描かれている気がする。見るものにも迫ってくる。

 

 クリスは結局町の喧嘩騒ぎに巻き込まれて死んでしまう。それを「10年会っていなかった」と綴るゴーディ。12歳の時の彼ら以上の友達はいないという。そうか。そういうものかもしれない。わたしの古いともだちも、13歳からのともだちだ。大人になる前の自分を曝け出していた数年の間に出遇ったからかな。いつも一緒にいる必要もなくて、自分の心の中でともだちだと思っているのでいいのかもしれない。SNSでは友達が何人とか出るけど、本当のともだちっているかいないか、相手もそう思っているかわからないような存在かもしれないとちょっと思った。

 

 古い映画を時を超えてまた見るのもいいのだなと思った。