きこえてきたこと

哲学、読書、文学、宗教、映画、日々のこと。

不眠のお薬-第二夜-

 起き上がれないわぼーっとするわ世界の境界が曖昧だわ、偉い目に遭ったのでともだちのアドバイスにより一錠だけ飲むことにした。

 ある薬が、味覚異常の副作用があることがわかり、これが水を飲むことさえ困難にさせているので、どうしてもやめたかった。口直しになるかと飲んだ牛乳が壮絶に苦い漢方の秘薬みたいな味になった・・・。

 本が読めないので、Amazon Proime Videoでこの間原作を読んだ映画を見る。よかった。

 22:50 一錠を飲む。ともだちに報告。

 23:30 全然寝られない。

 0:00 全然寝られない。

 0:15 ひょっとしたら眠いかも

 0:30 (多分これくらいに寝てる)

 5:15 第一の目覚め。目は開く。でもねむい。

 9:00 第二の目覚め。ふらふらもしない。大丈夫そう。

 

ということで、比較的普通な感じで目覚めた。朝から家事もちゃんとできる。買物にも行ける。大丈夫。ただ、寝た気がするかと言われると、ちょっと微妙だった。

気分も昨日はなんというか「無」って感じだったけど、今日は若干の寂しい気持ちがあるけど押しつぶされるようなことはない。

 

 お薬情報をくれたともだちから「昨日どうだった?」と連絡が入る。新たな情報を教えてくれたので、今日は先生の処方に近づけるため、副作用がひどかったもの以外と二錠飲むことにする。

 まあ、明日も朝の予定がないしいいのだ。

 

 それにしても思うことは、薬一錠の効き目で人間の感情というか感じ方というのは変わってしまうものなのだな。ほんとうに。昨日のわたしは今日のわたしではないどころか、10分前のわたしと今のわたしは同じでないというのもそうなのだ。わたしというたしかなものというのは、この入れ物(身体)があるから識別できるのかもしれない。そんなことを考えた。

 

 今晩も飲む。

はじめて行った心療内科

 産まれて初めて心療内科なるところに行った。

 会社員としてはメンタル問題有りの烙印を押される感じが無きにしも非ずだったけど、寝ることによって体調を整えるということはもう絶対やらなければいけないことだと感じていた。

 長いところみたいだったし、完全予約制じゃない感じで、いまの「とりあえずいってみるだけです」というわたしのこころがまえにも合うと思い行ってみた。

 受付に誰もいない・・・。奥から年配の男性と女性の声が聞こえる。「すみませーん」と声を掛けて出てきたのは多分、電話したときに出てくれた人。

「あら、気がつかなくてごめんなさいね」

と手続きをしてくれた。

 わたしの後に一人来られていたが、先生が診察室から顔を出されて、わたしに向かっていった。

「直ぐ終わるから、こちらの方先ね。」

とのことこ。もうここまで来たからあとさきはどうでもよい。

 

 わたしの診察の番。普通の内科と違ってなにもないビジネスデスク。

 先生が最初に聞いたのは、なにが辛いかじゃなくて、

「どこに住んでるの?仕事は?」と「ご家族は?」だった。

 そしてようやく本題に。 

 今月に入ってあまり良い睡眠状態じゃないこと。まったく食べたくなかったり、急に過食になること。自分が役に立たないという気持ちが大きくなることもあるが、普通に戻る瞬間もある。

 そんな話をずっとした。

 そして休みに入る前だから、効かなくて辛いより効いた方がいいだろうということで3つの薬を処方してもらった。思ったより普通だった。

 

 23時。ともだちとLINEで話す約束をした。というのも、どれだかぱったり寝られるのか気になったから。とりあえず22:45に布団の横でのむ。

「すぐにくるよ」

「ぜんぜんねむくない」

「おやすみ」

 

30分後、

「だめだはっきりしてきた」

「あかんわ。どうしよう。」

と送ったけど、ともだちは寝た模様・・・。

 

ここまではまあ、よかった。

不安

 4月に入ってから、睡眠がおかしい。

 二日ほど、一睡もしないで会社に行った。

 寝られたと思っている日も、スマートウォッチの睡眠計測とストレス測定がおかしいことになっている。寝てる時間にストレスがかかっている。

 

 ずっと不安だ。

 なにに不安なのかわからないけど、突き詰めたら生きているのが不安だ。 

 結構自分のやることに自信を持っているタイプなのだが、どんどん無力感が増してきて、自分が今役に立っているのかどうかが自信なくなってくる。

 いままで生きてきて、「これだ」ということでストレスがあることなんていくらでもあった。今回は、とにかくすーーーっとなにかが自分の身に忍び寄るようにこうなってしまった。

 寝られない。本も読んでみるけど、寝られないときは目が滑って読めない。暗闇の中でじっとしている。

 カーテンのない小窓がある。そこから深夜の車の往来の気配を感じ、朝日が入ってくるのを見る。一日という単位が曖昧になる。

 日中に動悸がする。心臓の音が気になる。しんどい。ひたすらしんどい。一睡も出来なかったときは、会議中もなめらかな口調で話をしているのに、それが自分じゃないみたいで、「ああ、なんて上手く話しているんだ。わたし。」と客観的にみているもっともっと内側のわたしがいる。変な感じ。

 今は大丈夫。でも明日はわからない。自分が社会生活をする=会社にいく という行動に確信がなくなってきた。不安ってなんだろう。原因を見ようと思ってもなんだかわからない。不安という実体があるのではなくて、関係性がはっきりしないことが不安なだからかな。関係性をはっきりできないのは、わたしの認識がぐらついているから?そのわたしの認識をわたし自身が疑っているから?疑っているわたしというのは誰なんだ。

 明日、わたしは会社にいけるのか。でもぎりぎりなんとかなるとも思っている。

 

 ともだちに、いい加減にしろといわれ、自分で決めるのではなく、人に言われるというのも自分で決めなくて良くて楽だし、生まれて初めて心療内科に行くことにした。寝たいから。

 

「たまたま」戦争に勝ったり、いい人になったり、死んだりしている ー『坂の上の雲』

 大分時流に遅れているかもしれないが、近代の名作だからいつ読んでもいい気もする。

 『坂の上の雲』/司馬遼太郎(文春文庫) 全8巻を読破した。

 

合本 坂の上の雲【文春e-Books】

合本 坂の上の雲【文春e-Books】

 

  ドラマを先に見ていたんだけど、いろいろあってやっと読んだ。ドラマより断然本の方がよかった。ただし、登場人物が『銀河英雄伝説』よりは少ないけど日本人の20代から60代の男性がほとんどのため、判別するにはドラマを先に見ておいたのはよかった。

 

 早い話が、内容は日露戦争。松山出身の秋山兄弟が陸軍、海軍においてそれぞれ軍人として活躍する様。そして友人の正岡子規。貧しくても、能力があれば国のために働くことが出来た。いろいろなことが混沌としていた時代。

 わたしは戦争物には興味はない。軍艦とか見たらすごいなと思うけど、たいした興味はない。戦国時代もあまり・・・。心惹かれたのは、作者が一生懸命「事実」を探し、それを再構築し、そこにいた人々の行動という「事実」にいのちを吹き込んだというところ。ただの歴史小説じゃない。いきいきとした人たちがいる。

 

 ここに出てくる人は、突然死んだり、ギリギリでうまいこといったり、勘違いして大失敗したり、でもそれが結果オーライだったりする。わたしの今の人生と同じだ。「日露戦争」の勝敗だけで言ったら、これは日本の戦争で勝利した話な訳だけれども、そこが焦点ではないと感じた。著者が日本側、ロシア側、日本側のさらにそれぞれの立場からどういう「事実」があったかを検証しながら書いているので、重複も多く、それだけ一つのことが起こるのに、人間の力なんてそれほどたいしたことではないということが迫ってくる。すべてはたまたまなんだ。偶然と言うより、「たまたま」という語感の方がなぜかしっくりくる。

 「こういう事実が起こったのはなぜか」ある程度は説明できるかもしれない。でもそこには「たまたま」の要素の方が多分に含まれている気がする。

 主人公の秋山真之は、この戦争は人知を超えた力のはたらきがあったと信じ、戦後はそういうスピリチュアル的な思考を持った言動をしたと言われている。真之は、「たまたま」勝った側にいたから、それを「神仏」による力と思ったんだろう。では大陸においてその軍事力を誇示していたロシアがまさか極東の島国に戦艦をすべて撃沈されるような負け方をするとは・・・「悪魔」のせいとでもいっていたのだろうか?でもそういう考えになってしまう気持ちはなんだかわかる。絶対に勝つための戦略を突き詰めて突き詰めて考えていったときに、それを超えるものがあったときに、そう思うんだろう。本当の努力をした人は。

 登場人物のひとりひとりもすべての瞬間、英雄だったり、悪人だったりするわけではない。わたしもいいひとだったりわるいひとだったりする。心の中はずっとわるいひとかもしれないけど。でもそういういいときとわるいときがちゃんとでていて、そこに生きている人間がやっていることだというリアリティを感じられた。どこかのスーパーマンがやっている戦いではなかった。

 そして戦争礼讃にはまったく読めない本であった。のちに乃木将軍の伝説が出来たり、陸軍の方向性がおかしくなったり、そういう道筋がどうできたかを少し垣間見させてくれる終りとあとがきだった。

 

 途中、何度も泣きながら読んだ。これは戦争への悲しみではなくて、わたしたち人間というのはなんともならん中で生きていくしかないのだなと言うのを、この本の中で生きている人たちから教えられた気がする。いまを生きるわたしもそうなのだ。こんな世界はいやだと言っても何も変わらない。すべては起こっていく。

 著者はちょうど私くらいの年齢でこの本の下準備をし、書き上げている。すごいな。これだけのひとの人生をずっと調べて、その瞬間の状況、ひとびとの気持ちも考えて、すごい作業だな。ただただ素晴らしい。そしてこの本を読めてよかった。

 

未完成の中にあること

 ともだちが読んだ本の話をしてくれた。

「一生懸命先人の話から考えて、なんとか自分の身の中に納得できるようなものを探していた。本や思想としては完全な纏まりのあるものではないけれど、次へ(次世代)へつながるプロセスが生々しく、困難な時代の中で考え抜いたことのすごさがあった」

わたしの印象で言葉を置き換えて書いたけど。こんな感じ。

完全じゃない。まとまりがない。でもそのなんとか自分の「求めるもの」を考えて考えて考え抜いた人。オシャレなカフェでカフェオレを飲みながら執筆したわけではない。生きるか死ぬか、生きていても、存在を否定されるような状況において考え続けたということ。

 

 「がんばったから報われたい」というわたしの思いは消えない。小学校や中学校などで、「がんばっていればいつかいいことあるよ」といわれたけど、実際はそうでもないことを大人になって知る。

 きっと現代社会に生きるわたしより、不条理の中で生きているこの人は、そんなことは身に沁みて、当たり前に思っていただろう。

 苦しみの中求め続ける中に、第三者が、後にその著書を読む人が、完成していないそのうねり続ける形にならないものの中に、これまた形にならないものを心に呼び覚まされたんだろうなと思った。

 

 わかりやすくて、結論がある話を聞くより、その人が考え苦しみいまそこを辿る話を聞くときに、わたしの中の何かが呼応して呼び覚まされる気がする。わたしたちに「わかる」ことってどれくらいあるのだろう。なにかを「完成」だといいきれることはあるんだろうか。わかった気になること、自分で勝手に思うことはあるけど。完成じゃないってことはある意味ほんとうのことの様な気がする。

 

 ともだちの読んだ本はまだ読んだことがないので、いつか読まなくちゃ。こう思わせるような、ともだちの感想というか、話だった。そこもすごいのだ。

日記を書いてみようと思った

 別のブログを持っていたのだけど、とあるジャンルに特化していたことと、なんとなくリアルの世界とリンクしていたので身バレもするし、のびのびと書けないなあと思っているところがあった。そんなの誰も気にしないのだろうけど気にしてしまうのが自分。どう見られたら良いのかを常に考えてしまう。わたしの場合は、「どう見られたい」より、「どう見られるべきか」というような感じかもしれない。めんどくさい人間だ。

 きっちりジャンル分けしてSNSを利用していたけど、そうやっていると、本当の自分ってなんよ?という気持ちが湧いてくる。だってあれもこれもそれも全部ひっくるめて自分なのに、誰に要求されるでもなく勝手に自分から他者への窓口をカテゴライズして書くこともそこに合わせて考える。仕事ならそれでいいのかもしれないけど、これはわたしという人間の活動。わたしはひとりなのに、どうしてこんなに窓口を分けたくなるんだろう。こちらの窓口の先の人と、あちらの窓口の先の人が違うと判断して、混ぜないようにと思っているわけだ。でもそういうのもういいかな。と言う気もしてきた。

 なんか疲れてきたのもある。自分で変な努力してきたのをやめようと思う。

 ということで、ここには誰にも見られなくても自分で書くだけで満足の日記を書いていこうと思う。