きこえてきたこと

哲学、読書、文学、宗教、映画、日々のこと。

『ボヘミアン・ラプソディ』

 

ボヘミアン・ラプソディ (字幕版)

ボヘミアン・ラプソディ (字幕版)

  • 発売日: 2019/04/17
  • メディア: Prime Video
 

 話題作だったのに全然見てなかった。

ほんとうに世間について行けてない。

Queenは大好きだ。小学校高学年~中学生の時にもう亡くなる直前にフレディを知った。『Breakthru』の頃かな。電車の上で白シャツに民族衣装チックなベストで歌う姿を覚えている。

その後、大人になってベスト盤を買ったのだけど、離婚するときに元夫にそれだけは俺にくれといわれて置いていった記憶がある。わたしが買ったのに。いまさらながら取り戻したくなってきた。

 

これはフレディー・マーキュリーがどんな人だったかを知りたくてみんな見たのかな。わたしはひたすら、ああ、この声を聞けて良かったとひたすら思ったのだった。彼がどこの生まれでどんな人を愛し、どんな性的嗜好があろうと、この声を世界に響かせたのは確かだ。だからそれでいいのじゃないかなと思った。聖人でなくても善人でなくてもミステリアスでなくても。たまたまこの世にこの声を残してくれた。ありがとう。ありがとう。

 

 

 

『遠野物語』を読んだ

『NHK「100分de名著」ブックス 柳田国男 遠野物語 』 

    石田正巳 NHKブックス

 

遠野物語柳田国男 Amazon青空文庫

遠野物語

遠野物語

 

 

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反省することと後悔すること

 ともだちと話していて、「反省」は自分が悪いと本当に思うこと。「後悔」は、ああすればよかったとおもうことということで二つは違うという話になった。

 そうだ。たしかに。

 わたしたちは「ごめんなさい」と頭を下げる。自分が悪いから謝る。反省の意を告げる。でも、ほんとうにそうなのかな。頭を下げているのは、そうしないと「後悔」するからかもしれない。自分にとって都合の良い結果のための「ごめんなさい」は、純粋な反省とはいえないのではないかな。

 

 わたしはいつも自分が悪いと考えることが多い。どうしてかというと、そうできない自分の能力が至らなかったからとした方が、他人のせいにして苦しむよりましだから。コントロールできない他人のせいにしても苦しいだけだと感じている。

 でもそういう「自分のせい」は、わたしの「反省」は結局「後悔」の対象を自分にしておいたら楽だから。それは結果として自分を傷つけているのかもしれない。反省もしてないし、自分を傷つけてどこへもいけてない。

 

 そんなことを考えた。

散歩に行った。

 今日は近所のお寺のベンチに座って、夕方の柔らかい陽を浴びながら読書をした。初めてのこと。子供たちが遊んでいたり、老齢の方がなにをするでもなく座っていたり、買物途中の方が通りすがりに本堂に手を合わせて行ったり。なんでもない日常がある。薬のせいか、そういうものをみても苦しくならなかった。わたしはいつもこういうありきたりな幸せそうな情景を苦しく思うことがある。

 でも今日はなかった。

 

 一日が終わっていく。わたしの命が一日死に向かっていく。そういう風に考えるのは悲観的だといわれるがでも事実だと思う。この事実をみつめて生きることは、辛さもあるけど生きていることが、ここに存在している自分が奇跡だとちょっと思うこともある。どうして生まれてきたかはわからないけれど。

 

 今日はチョコレートを買って帰った。夜に来るともだちと食べようと思って。でも我慢できなくてちょっとだけ食べた。先に食べて良いよと許可が出たからいいのだ。

『スタンド・バイ・ミー』ー映画館でみたリバー・フェニックスの強さー

 『スタンド・バイ・ミー』 1987年 Rob Reiner

スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

  • 発売日: 2016/03/18
  • メディア: Prime Video
 

 

 1987年か。映画館でみた。彼らは同い年ぐらい。当時のわたしは、一昔前のアメリカの少年たちの自由さをうらやましく思ってみた。木の上の秘密基地。たばこを吸って、冒険に行く相談をする。同世代だけに違った世界がキラキラして見えた。リバー・フェニックスは当時アイドル的に人気あったしね。そして死体探しをしにいくこともかっこよく見えた。自分のことで思い悩む主人公たちの内面すらもすてきに思えた。憧れの厨二病のネタだみたいな。なんと勝手な。冒険譚としてみていたのは否めない。

 

 この映画の数年後、リバー・フェニックスが亡くなった。子役のイメージだったが、もう成人していた。

 当時、ショックだったけれど情報を追っていなかったが、今調べてみたら、リバー・フェニックスは両親が入っていたカルト教団「神の子供たち」に所属しており、性的幼児虐待を受けていたそうだ。本人が語っている。

 こういうバックグラウンドが、この映画での「大人を信じることを諦めた強さ」みたいなもの感じさせるのかもしれないと思った。

 

 いま改めてみると、少年たちが「死」に向き合う物語だ。興味本位に死体の話をするバーン。電車にひかれずにぎりぎりまで線路にいるゲームをしたがるテディ。自分の家庭や周りからの扱いから自分に希望を持たないクリス。そして兄の代わりに自分が死ねば良かったと思っているゴーディ。彼らは死体発見者として注目されたいという名目で探しに行くわけだ。でも途中からそれだけではない雰囲気がでてくる。彼らが死体に対峙したとき、胸に去来したのは、「死」は見に行くものじゃなくて、自分にもあるということではないだろうか。

 

 印象的なシーン。

 ゴーディが語って聞かせるお話。みんなに馬鹿にされる太った男の子が町のみんなに復讐する話。テディはその男の子の「その後」を聞きたかったけど、ゴーディはさあねといった。その男の子が幸せになったというエンディングより、みんながmess upというのが重要なんだろう。彼はそれで満足なんだ。わたしたちはとかく自分の納得のいくエンディングを付けたがる。

 クリスが先生に裏切られたことをゴーディに告白するシーン。鬼気迫るリアルさ。リバー・フェニックスの悲しみの中から出てくる強さみたいなのがすごい。これは本当に短い間にあった彼の人生経験から来るものではないかと思う。

 死体を横取りしに来たエース(キーファー・サザーランド)に銃口を向けるゴーディ。この真剣さに押されるエースの演技もいいと思う。

 生きることにちょっと悩みながら若さと勢いにあふれる少年たちが死というものをなぞりに行くことで、生きることと死ぬことの対比と一体が同時に描かれている気がする。見るものにも迫ってくる。

 

 クリスは結局町の喧嘩騒ぎに巻き込まれて死んでしまう。それを「10年会っていなかった」と綴るゴーディ。12歳の時の彼ら以上の友達はいないという。そうか。そういうものかもしれない。わたしの古いともだちも、13歳からのともだちだ。大人になる前の自分を曝け出していた数年の間に出遇ったからかな。いつも一緒にいる必要もなくて、自分の心の中でともだちだと思っているのでいいのかもしれない。SNSでは友達が何人とか出るけど、本当のともだちっているかいないか、相手もそう思っているかわからないような存在かもしれないとちょっと思った。

 

 古い映画を時を超えてまた見るのもいいのだなと思った。

 

不眠のお薬-第三夜-

 二錠飲んだのだが、1時間半もおめめぱっちり。あれ?即効性あるって言ってたのに・・・。でも結果は寝られた。しかし寝起きが辛い。身体が起きてない。これは会社に行くに当たってはかなり調整が必要かもしれない。

 

 昼頃から身体が起きてきて、だんだん動けるようになる。午後はZOOMで習いごとがあったのだけれど、人と喋っていたらどんどん元気になってきた感じがする。

 夕方になって運動不足解消に散歩ついでにお買い物。家事もテキパキ出来る。よかった。

 この二錠を早めに飲んでみるかだな。

 GWで会社行かなくて良いときに試せて良かった。

 薬なくても大丈夫っていう目安はどこにあるのかな。飲んだら飲んだなりに疑問も出てきた。

 でも不安が少ないのはいいな。いい。

 

 昨日は雨で寒くて、今日はなんとなく肌寒かった。一番暖かいときに外に出てないからかもしれない。

 定期券を5/1に買わなくちゃいけないのを急に交差点で思い出し、駅まで行く。こういうの絶対忘れないタイプなんだけど、やはりちょっと普通と違ってたんだなと自分のことを思う。でも忘れた自分を責める気持ちもないのはよかった。適度に緩くなってる様な気がする。

 

『日の名残り』 小説も映画も

日の名残り』 カズオ・イシグロ 

 Audibleで聞いた。 

日の名残り: ノーベル賞記念版

日の名残り: ノーベル賞記念版

 
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